相貌失認の人が学生時代に配布物を配るときに行った工夫
学生時代、日直当番の仕事の中に「配布物を配る」というのがありました。
人の顔が覚えられないソボは、配布物を配ることができませんでした。
小学生時代は、それでクラスメイトから文句を言われたり、先生にやる気がないと叱られたりして、いつも悲しい思いをしていました。
「配りたいのに配れない。忘れているわけでもないし、やる気がないわけでもない。なのになぜ、やる気がない、もっと頑張れ、もっと努力しろと言われるのか。」
「頑張ってもできないことを頑張るってどういうことなのか?また、どこまでやれば頑張ったことになるのか?」
「どうして他の人はスムーズに配布できるのに、自分はできないのか。」
当時、自分が相貌失認だと気づいていなかったソボは、自分の状況が全く理解できませんでした。なぜか怒られてばかりです。そうしているうちに次第に「自分は人より能力が劣っているダメな人間なんだ」と思うようになりました。
中学生になると、教卓の上に座席表が張られるようになりました。
そこでソボは、教卓の上の座席表を見て配布物を配ることを思いつきました。ですが、1クラス45人もいるため、座席表を一度に暗記することはできません。しかも相貌失認のため、認識できる範囲は、ほんの一部分だけです。
そのため何度も何度も座席表を見に行って、「横田、山田、青木、渡辺、鈴木」というように4~5人ずつ名前を覚えながら配布しました。
ですが、それでも他の人より相当時間がかかります。結局中学生になっても
「他の人は、第六感みたいな能力が備わっている。だけど、自分にはその能力はない。やはり自分はだめなヤツなんだ」との認識を益々深めていくことになりました。
このように子供というものは、相貌失認に限らず何か問題が発生すると、必ずといっていいほど「自分が悪い」と思い込みます。客観性がありません。相貌失認の人のように、周囲の状況が認識できない場合は尚更です。
相貌失認の人は、周囲の人を観察することができません。と言うよりも、そもそも相貌失認の人は、周囲の人を観察する習慣がついていません。まじめな人もいればフザケている人もいる、ということがわかりません。自分が叱られたとき、同じように叱られている人を見るだけで、な~んだ、あの人もそうか~、と仲間を見つけて安心する我々とは違います。
従って人を観察することのできない相貌失認の人は、怒られたらそのまま額面通り100%自分だけが悪いのだと、受け止めてしまいます。世の中は、ミスが許されない非常に厳しい場所だと誤認識してしまう可能性があります。
(まんだむさんによる写真ACからの写真)
ところが高校生になるとさすがに知恵がついたようです。
教卓の上にある座席表を別の紙に書き写して、それを見ながら配布物を配ることを思いつきました。席替えをするたびに書き写すだけで良いのです。これは中々うまくいきました。
このように相貌失認の人は、叱られないために、或いは周囲の人と同じように行動するために、工夫や涙ぐましい努力をしながら社会に適応しようと、日々頑張っているのです。
ご精読ありがとうございました。