相貌失認の人はお片づけができないと思われる
相貌失認のソボはお片付けができませんでした。
我が家では子供が幼稚園のころから、自分で出したものは自分で片付けるというルールがありました。でもルールといっても別にたいしたことはありません。ポイポイと箱に入れるだけです。
おもちゃ箱は全部で3つありました。プラレール箱とブロック箱とその他の箱。3つに分類するだけなので、大して難しくありません。でも小学校3年生になっても、ソボはお片付けができませんでした。
毎日夕飯前になると私は、おもちゃを片付けるように子供たちに伝えます。でもソボはフンフンとうなずくだけで、ちっとも動こうとしません。そこで私が、テレビの前にぬいぐるみが落ちてるよ!と指図します。するとソボはぬいぐるみだけを拾って片づけます。
ソボは指図された物か、目前にある物しか片付けることができませんでした。
どうして、言われたおもちゃしか片付けないの?あちこちにまだおもちゃが散らかっているでしょ!と再び私は怒って注意します。するとHBスケは悪びれもなくさらっと言います。
「だって、散らかってないもん。全部片付けたもん。」
え!それどういうこと?どんな見え方しているの?と、本当はここでじっくり追究すれば良かったのですが、夕飯時の忙しい時間帯に、子供とじっくり向き合う余裕はありませんでした。
当時の私はとても忙しく、仕事・学校の役員・家事・子供の世話に追われ、今でいうワンオペ育児という状態でした。主人の帰宅時刻は毎日遅く、近くには頼りになる親兄弟も親戚もいません。1日1日が精いっぱいでした。まさかソボの見え方がおかしいなんてことは、爪の先ほども考えていませんでした。
それともう1つ理由があります。当時のソボの視力は1.2ほどありました。毎年の眼科検診でも異常は見当たりませんでした。だから見え方に問題があるとは夢にも思っていませんでした。
でも仮にこのとき、病院へ行っていたとしてもどうだったでしょうか。おそらく異常は見つからなかったのではないでしょうか。後に眼科で詳しい検査をしてもらったときも、眼科的問題は全く見つかりませんでした。相貌失認は「脳の認知機能」の問題であって、「身体的」問題ではないのです。
また当時世の中には「相貌失認」という概念はほとんど存在していませんでした。2013年にブラッドピット氏が発表するまでは、日本ではごく限られた一部の専門家以外は知らなった症状ではないでしょうか。
さてある日のこと。小学校で授業参観がありました。私は上の子の授業を見てからソボの教室へ向かったので、ソボの教室へ着いたのは授業開始から20分後でした。するとそこで目を疑うような光景が目に入りました。なんとソボの机の周りには、体操着やら上着やら発表用の画用紙やらが所狭しと散らばっていたのです。
汚い!みっともない!恥ずかしい!
私はソボのところへ行って、散らかっているものを片付けたい衝動にかられました。でも今は授業中。そんなことはできません。
その後すぐにソボの発表が行われたのですが、私は恥ずかしさのあまり、張り切って発表するソボの言葉が全く耳に入ってきませんでした。他の保護者の視線も気になり始めました。家ではお片付けができなくても、人目のある学校ではちゃんとやっていると思っていたのに・・・・。本当にショックでした。
「ランドセルと体操着はロッカーに入れて、上着は廊下の壁掛けにかけるんだよ。」
ソボが帰宅するや否や、私はすぐに注意をしました。でもすかさずソボは答えました。
「だって、自分のロッカーがどこにあるのか分からないんだもん。廊下の壁掛けもどこにあるのかわからないんだもん。机の周りにおいておけば、すぐ荷物がとれるんだもん。」
その話を聞いて私は、ソボが横着者だと決めつけて激怒しました。
「ソボの荷物がごちゃごちゃ置いてあると、他の人が通りにくかったり転んだりして危ないから、とりあえずランドセルと体操着だけは絶対にロッカーへ入れなさい!!」
でも今思えば、これが相貌失認の症状なのです。全体の風景が見えないため、自分のロッカーを見つけるためには何度も何度も視線を走らせなければなりません。そして自分のロッカーが見つかるまで、一つ一つ順番にロッカーを見て回らなければならないのです。確かに大変だし時間もかかります。それなのに私はソボが横着者だと決めつけて、ガミガミ叱ってしまいました。本当にかわいそうなことをしてしまいました。(後に謝罪しましたが、ソボは覚えていませんでした。)
相貌失認の人は本当に片付けができません。できたとしても時間がかかります。特に1つの部屋を大勢で共有している所では、自分のロッカーを探すだけでも大変なのです。
もし。
もし周囲にどうしても片付けができない子供(あるいは人)がいたら、その人の人格や躾を疑う前に、相貌失認、或いは見え方に何か問題があるのかもしれないと考えてほしいと思います。
その人の人格を否定する前に、必ず。