相貌失認がんばり隊

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相貌失認の辞書には羞恥心という文字はない!

わが子に羞恥心が芽生えてないことに気が付いたのは、ソボが小学5年生の秋でした。

人は一体いつから羞恥心が芽生えるのでしょうか。

もちろん、恥ずかしがりやの人もいれば、大胆な人もいます。厳しく育てられた人もいれば、寛容に育てられた人もいます。また一人一人の性格や生育環境にもよりますし、恥ずかしいと感じる程度も人それぞれです。

しかし日本にはもともと「恥の文化」があります。「恥ずかしいから~できない」という感情は、人々の言動の抑止力の一つになっています。

ところが「恥ずかしい感情」を発動させるには条件があります。その条件とは、自分以外の人の存在が関係しています。もっと具体的に言うと「人の視線」の存在が関係していると言えます。例えば、誰もいない無人島で生活していたら、恥を感じることはめったにないでしょう。転んだ時に一人だとしたら、恥ずかしくはないでしょう。或いは転んだ時に人がいたとしても、見られていなければ恥ずかしくはならないでしょう。そのような時は「見られてなくて、良かった」と誰もが安堵すると思います。

小学5年生のソボには、年相応の羞恥心が育っていませんでした。

小学5年生の女子といえば、すでに無邪気な子供ではなく、心身ともに大人への成長が始まる時期です。その年代の女子の話題といえば、大抵は恋バナ・流行りもの・芸能人・ファッション・現代ならSNSなどが中心になってくるのではないでしょか。つまり他者との関わりに意識が向き始めている時期だと思います。そのため急速に羞恥心が芽生えていきます。

一方ソボは、そういったものに興味関心を示すことは全くありませんでした。ソボの興味の対象はもっぱら、動物や植物、自らの創作した作品だけでした。つまり己の興味ある対象物だけがソボの世界でしたので、ソボが他者(人間)に興味関心を示すことはありませんでした。

やがて秋になり運動会の日になりました。その日、ソボに羞恥心が育っていないことを裏付ける決定的な出来事が起こりました。

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午前の部の演目はほとんど終了し、あとは5年生のダンスを残すのみとなりました。
しばらくすると軽快なソーラン節の曲に合わせて、5年生が入場してきました。

ソーラン節といえば「ドッコイショッ!」とか「ハイハイッ!」という掛け声がつきものです。踊りにも特徴があり、ガニマタポーズや決めポーズもあります。本気で踊ればとてもカッコいいのですが、遠慮がちに踊ると、見ている方も何となく照れてしまうような感じです。

これが思春期の子供にはたまらなく恥ずかしかったのではないでしょうか。ほとんどの子供が、早く終われとばかりに踊っていました。年頃だからムリもないと思います。

ところが。
最前列に、掛け声も大きくピョンピョンと張り切って踊っている子が一人いたのです。そう、何を隠そう、その子はわが子ソボでした。

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相貌失認のソボには、もともと人の顔を見る習慣がありません。

人はメンタマさんであり、耳さんであり、靴ひもさんであり、白さん(体操着の布の色)でした。

そのため生まれてから一度も「人の目」を気にした経験がありません。

つまり、ソボの辞書には羞恥心という文字はなかったのです。

ソボはこの時、心から踊りを楽しんでいるように見えました。その上、元々なりきるタイプだったのも良かったのでしょう。最前列にいたのも幸いだったのでしょう。
小さい体で懸命に踊るソボの踊りは、決して上手とは言えなかったのですが、人々を魅了しました。人々の心に印象を残しました。

5年生のダンスが終了し、お昼休みになりました。一旦家に戻ろうと思ってグラウンドの出口に向かって歩いていたところ、私は何人もの知り合いとすれ違いました。

「ソボちゃんの踊り、可愛かったよ!」
「ソボちゃん、堂々と踊っててエラかったねぇ。」
「清々しくて良かったよ!」

皆、喜色満面の笑みで声をかけてくれました。さらに先生方からも「人前で堂々と踊れるソボの度胸の良さ」を誉めて頂きました。

ソボが誉められたことは照れくさい反面、とても嬉しかったのですが、実は私は親として少し複雑な心境でした。

もしかしたら年相応の羞恥心が育っていないのかもしれない。

他の子と様子が違うソボの踊りに対する不安が、どっと押し寄せました。でもそのおかげでソボは誉められたのです。
「せっかく誉められたのに、あえて複雑に考えることもあるまい。羞恥心が育っていない方が良い場合もあるのだ。」
私はそう考えることに集中することにしました。

そしてその夜、たびたび押し寄せる不安をムリに振り払い、ピョンピョンと踊っていたわが子の楽しそうな姿の余韻に浸ることにして、1日を終えました。